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日本(2011/08/15)
朝4時くらいに目が覚めてしまい、まだ船は海上だったが、門司港の沖合あたりで停泊している。朝になって通関できるまでの時間を稼いでいるようだ。最後の帰り道。下関から横浜までの約1000kmを行く朝がスタート。
韓国(2011/08/14)
本来のスケジュールだと、ここで板門店、または38度線を目指すところだったが、釜山ターミナルに15時までにチェックインしなくてはならなかったので、諦める事にした。アジアンハイウェイ1号線は先の北朝鮮を超えて、中国、東南アジア、インド、さらには遥かトルコまで続く道である。将来、アジア情勢がもっと平和、かつ自由に渡航できるようになったら、トルコまでクルマでいく事も夢ではなくなるかもしれない。
韓国(2011/08/13)
夜中に目が覚める。船の中には位置情報ナビゲーションの表示ディスプレイがおいてあって、地図を見ると対馬の沖合に到達している。甲板に出てみると、うっすら月明かりに照らされた暗闇のなかの水面が映り、遠くには対馬の灯台の明かりが見える。こんな海上でも、なぜか iPhone の3Gローミングが使えて、ネットに接続することができる。
日本(2011/08/12)
夜中の高速道路はお盆時期でもあり、それなりの交通量があった。かっきぃがひたすら運転してくれて道中が非常に楽ちん。あちこち、サービスエリアにとまったり、渋滞にはまったり、流れたりを繰り返しながら、明け方には天王山や吹田ジャンクションあたりで結構な渋滞にはまる。
日本(2011/08/11)
日中仕事を終えて、早めに夕方には帰宅。
同行する斧木君が21時にならないと出発できないというので、
家で荷造りしたり、シャワーを浴びたり、なんだかんだと準備を行う。
ベルリン(2003/04/30)
今日はたっぷりとベルリン観光に乗り出そうという一日でした。
昨日、夕刻に近い時間に眺めたカイザー・ヴィルヘルム教会をしっかり朝いちで眺め、再び第二次大戦下の連合国軍の爆撃のものすごさを目の当たりにしました。
プラハ⇒ベルリン(2003/04/29)
プラハの滞在も二日だけで主な観光名所をまわったので、この日はいよいよベルリンへと向かう事にする。
ベルリンへの鉄道は現代的な設備とフォルムの列車にのっての移動だった。椅子や窓や外装などすべてが洗練されていて、快適な旅となる。これまで中国や旧ソ連圏、東欧などの列車は古びたものが多く、がらっと変わっている。
プラハ(2003/04/28)
この日はウィーンから一緒に旅行を続けている日本人留学生とプラハの市内観光を楽しんだ。プラハは市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が流れ、古城が佇む歴史と重厚感のある街だ。
ウィーン⇒プラハ(2003/04/27)
ウィーン観光も前日に堪能したので、今日は次の国へ旅立つとする。
お昼ごはんにヴィーナー・シュニッツェルがおいしい店があるというので、カフェ・シュタインというお店に食べに行ってみる。
ウィーン(2003/04/26)
この日はウィーン観光を満喫しようと朝からトラムに乗って、あちこちへ繰り出す。これまで乗っていた旧東側諸国の交通機関に比べて新しさと快適さがぜんぜん違う。
ブダペスト⇒ブラチスラヴァ⇒ウィーン(2003/04/24)
ブダペストに別れを告げ、次なる目的地のスロバキアのブラチスラバを目指す。
ブラチスラバに着くとこれといってみるべきものもなく、駅にはぱらぱらと人が目に付くばかり。ガイドブックを見ても何を見てよいのやらわからず、いっそのこと、このままウィーンへ行ってしまおうと思い立つ。そして、おもむろにチケットを買い、ウィーン行きの列車に乗車する。
ブダペスト(2003/04/23)
ホテルの朝食のサービスを節約のため受けていなかったので、朝起きると地下鉄の駅に向かい菓子パン2個とミネラルウォーターで朝食を取る。地下鉄に乗りデアーク・フェレンツ広場駅に向かう。ここから、歩いてセーチェーニ鎖橋を渡り、ブダ方面へ向かう。橋の袂からケーブルカーでブダイ・ヴァールヘジ(ブダの城山)の上に登ることができるが、節約のため適当な坂道を見つけ歩いて登る。
キエフ⇒ブダペスト(2003/04/22)
夜中の3時過ぎにおじさんは列車を降りていった。しばらくすると、国境の駅に到着して、国境警備員がやってくる。パスポートを預け、持ち物検査票を提出する。持ち物のチェックがあって、武器を持っているかときかれるが、もちろんそんなものもっていない。寝たりないので、布団に入って寝ようとしていると、ガッチャンガッチャンと列車の車輪交換が始まる。車内からはどうやって車輪交換をしているのかが見えず、どうやって交換するのだろうと想像しながら、なかなか寝られないでいる。140分間なんだかんだと停車していて、日が明ける前にパスポートを返しに警備員がやってくる。
キエフ(2003/04/21)
今日はモーニングコールを8時に入れてもらうようにしていたが、列車に乗り遅れては大変という緊張感から、5時くらいから途切れ途切れに目を覚ましていた。8時にベッドをでて、ホテルの16階にある展望レストランにサービスのビュッフェ形式の朝食を取りに行く。列車でおそらくまともな食事を取れないだろうから、多めにしっかり食べておく。
キエフ(2003/04/20)
朝ゆっくり起きて、昼頃に郵便局にインターネットをしに行く。一時間情報集めをした後、セント・ソフィア寺院まで坂を登って、そこからホテルの方へ向かう。途中マクドナルドによってビッグマックセットを食べて、宿に戻ってくる。
キエフ(2003/04/19)
朝方起きると、車内の残り物で朝食を取り、宿を替えるためチェックアウトする。新しい宿は駅から近く、小奇麗な16階建てのビルで、建物全体がホテルとなっている。ホテル・エクスプレスという名前のホテルでフロントには英語が話せる女性がいる。悪くない。チェックインを済ませると、市内観光に向かう。
キエフ(2003/04/18)
朝、起きると乗客半分は下車して、車内はすっきりしている。朝食を取り、おばあちゃんやモルドバ人の青年といろいろ話をする。ベッド下にいるそのおばあちゃんから、モルドバ人の青年が車内で大量に買い込んだお土産や荷物を列車から降ろすときに手伝ってあげてとお願いされる。彼の荷物やお土産の入ったかなり大きいバッグが5つもあったが、こちらは快くOKする。また、このおばあちゃんはキエフもロシアのそれに比して危ない街だから、お金や荷物に十分用心してと忠告してくれる。おばあちゃんはキエフ駅の手前の駅で降りていった。
クルガン⇒キエフ(2003/04/17)
朝目を覚ますとロシア兵の青年が降りて行って、代わりにおばあちゃんが下のベッドに寝ている。相変わらず、僕はほとんどの時間をベッドに横になって過ごす。たまに車内に売り子がやってくる。ロシアの車内では、グラスや食器のセットを売りにやってくる売り子がいる。モルドバ人の青年はモルドバに住むおばあちゃんへのお土産にたくさんの食器類を買い込んでいる。しかも持ってきていた荷物もたくさんあって、荷物棚は彼のバッグで一杯になっている。
クルガン⇒キエフ(2003/04/16)
夜中の3時に怖い夢を見て実を覚ます。夢は列車のベッドで寝ている隙に強盗に襲われるというものだった。うなされて思わず「ヒィー」と情けなく声を出し、その自分の声に目が覚めて飛び起きる。ロシア兵たちがどうしたかと僕を覗きに来る。僕は「イズヴィニーチェ(ごめん)」と言う。彼らは写真を見せる。その写真には潜水艦が写っている。どうも彼らは海軍で、オホーツク海の警戒を任務としているらしく、そこで撮った写真を買わないかという。必要性も感じないし、万が一、変にふっかけられてもいやなので、ここは丁重にお断りする。彼らはこんな夜中にトランプをして遊んでいる。うるさいのと強盗への恐怖心とで、この後なかなか寝られなかった。モスクワで会ったオランダ人のことを思い出した。彼はモンゴルへ向かうシベリア鉄道で強盗に遭い、金品、ビザ、パスポートをすべて奪われ、モスクワで再起のため足止めをくらっていたんだった。自分もアルマティでタクシーの運転手に荷物を奪われた。この旅で旧ソ連圏は治安が悪いという印象を強く持っていた。そんなことを考えているうちに、しばらくすると、いくらかの兵隊たちが下車していって、静かになったので再び眠りにつくことができた。
クルガン(2003/04/15)
朝になると、おじいさんが家にやってくる。今日は昨日映画でみたようなロシアの片田舎に連れて行ってくれるという。クルガンからお父さんのクルマで一時間ほど行ったプーシキンスカヤという村に行く。ここにはおじいさんの知り合いがいて、チーズとサワー・クリームを譲ってもらっていた。ここには一頭の馬と三頭の牛、それに二羽の鶏と、一匹の犬がいた。本当にのんびりした田舎の村である。数十分ここでくつろぎ、天然のミルクをご馳走になって、すぐに帰ることになる。お父さんのクルマではイーグルスが流れていて、知っている曲が何曲かあったので自然と口ずさむ。広い平原とまっすぐな道、それにイーグルス。すごく気持ちがいい。
クルガン(2003/04/14)
ジャックは朝から学校に行った。朝食を頂き、お父さんと一緒にロシア語吹き替え版の「パール・ハーバー」を見る。これもアメリカのプロパガンダだとお父さは語った。昼過ぎにお姉さんと映画館に行く。映画館にはお姉さんのクラスメイトと映画館の係員の友達と会う。映画はハリウッド版の「リング」でみんな怖がっていた。僕はオリジナル日本版を見て内容を知っていたのでそんなに怖くなかった。
クルガン(2003/04/13)
この日はジャックのおじいさんが持っているガレージにお父さんとジャックと僕の三人で行った。ガレージの地下には貯蔵庫があって、ここにはたくさんのジャガイモが保存されている。僕も下に降りさせてもらって、ジャガイモを手に記念撮影をする。
クルガン(2003/04/12)
疲れが溜まっていたのと、モスクワより東へ移動して時差が2時間先に進んだのとで、11時まで寝てしまった。今日はジャックのお父さんの仕事場を訪問することになっている。起きると朝食を頂き、ジャックとお父さんと僕の三人でメルセデスのバンに乗り込み、お父さん仕事場へと向かう。
クルガン(2003/04/11)
クルガン駅への到着は早朝だった。眠いままクルガン駅に降り立つ。駅でジャックを探しに歩き回る。ぐるっと駅舎を回った後、ホームに戻ってみると、ジャックと彼のお父さん、それにお姉さんの三人が出迎えに来てくれていた。お父さんの運転するメルセデス製の大きなバンに乗り込み、途中買い物があるとかで、何件かのお店に寄って、ジャックの家に着く。
モスクワ⇒クルガン(2003/04/10)
取り立ててすることもなく、朝が来てもまだベッドに横になっている。たまに起きてそとの景色を見たり、ガイドブックを読んだりする。
昼過ぎに若者4人組みはペールムという駅で降りていった。降りるときに「ダスビダーニャ(さようなら)」と言って、握手をして別れる。また平凡な列車の旅路は続く。
モスクワ⇒クルガン(2003/04/09)
朝、起きるとオランダ人とイスラエル人のルームメイトは朝食を取りに行って、いなくなっている。このホステルは朝食が付くサービスになっていて、1階にあるカフェに行く。彼らのテーブルに座らせてもらって、朝食をともにする。僕は今日の19:00から列車に乗ることになっていて、イスラエル人のルームメイトは今日の夜中に列車に乗るということだった。それなので、三人で夕方まで一緒に行動しようということになった。
モスクワ(2003/04/08)
早朝、モスクワのパヴェレツキー駅に到着する。宿を確保するために先週滞在していたトラベラーズ・ゲスト・ハウスに行く。着いたのは7時でまだ受付が閉まっている。ノックをすると眠たげな係りの女の人が出てきて、今日は空きができるかわからないので、チェックアウトの時間まで待ってくれという。仕方なく、ロビーのソファーで休む。列車で寝足りなかったので、ソファーでしばらく眠る。
ミチュリンスク(2003/04/07)
朝、7時半には起きて、パンとコーヒーで朝食を取る。今日、ニックは学校に行く日で、自分も一緒に行くよう誘われていた。学校までニックのお父さんが送ってくれて、学校に入っていく。そこには先生がいて、自分が日本から来ている外国人で、授業を見学させたいのだとニックが説明している。しかし、先生はノーと答える。
ミチュリンスク(2003/04/06)
朝、ニックの家でペルメニという餃子みたいな料理を朝食としてご馳走になり、食べ終えると外出する。昨日と同じようにターニャを呼びに家まで行って、その後はバスに乗って、エフゲニーの家そばまで移動する。
サンクトペテルブルク⇒ミチュリンスク(2003/04/05)
朝、7時くらいには目を覚ます。二人のアレクセイはすでに起きていて、ウォッカとビールを交互に飲み始めている。僕も勧められたが、朝からお酒は飲めないので「ニェ・スパシーバ」といって断る。ほんとに二人のアレクセイは酒好きである。少なくとも自分が乗ってから、降りるまで、ずっとウォッカとビールを交互に飲んでいた。
サンクトペテルブルク(2003/04/04)
今日は20:50から列車に乗ることになっていた。午前中はチェックアウトぎりぎりの時間まで部屋で朝食を取ったり、日記をつける作業で時間を潰す。荷物をホステルのラゲッジ・ルームに預け、午後は市内を散策する。
サンクトペテルブルク(2003/04/03)
早朝、宿でチーズパンとフルーツドリンクとヨーグルトをもらい、これを食べる。今日はまず、次に行くミチュリンスクまでの切符を買いに行く。モスコフスキー駅のカウンターではどこも英語が通じない。それなので下手なロシア語を駆使しながら何とかチケット購入に成功する。出発は明日の夜である。モスコフスキー駅からネヴスキー通りと言うのが始まっていて、これがペテルブルクのメインストリートである。
サンクトペテルブルク(2003/04/02)
朝の5時50分に列車はサンクト・ペテルブルクに到着する。まずは宿を探そうと思い、モスクワで買っていたガイドブックを見て、ユースホステルに片っ端から電話する。しかし、英語で話し掛けるとどこの宿もガチャンといきなり電話を切る。英語が話せないからなのだろうが、客に対していきなり切ることはないだろうと思う。
モスクワ⇒サンクトペテルブルク(2003/04/01)
今日は出発の日である。先ず、朝にアメリカ人のおじいちゃんと一緒にレニングラードスカヤ駅に行く。僕はサンクト・ペテルブルクまでのチケットを購入するためで、おじいちゃんは数日後に同地に行くと言うことで下見のために一緒に来た。チケットは問題なく購入した。その後、一旦僕は宿に引き返す。おじいちゃんは町の中心部へ向かっていった。
モスクワ(2003/03/31)
ウクライナのビザを4月の15日からで申請していたが、物価の高さからもっと早く移動しようと思って、早朝からウクライナ大使館に申請書の修正をしに行く。
モスクワ(2003/03/30)
今日は日曜日だ。時間が今日からサマータイムに入って、時計の針を一時間先に進ませた。部屋のみんなは外出していって、僕だけは部屋に残って日記を書く作業と、後はベッドに横になって休息する。
モスクワ(2003/03/29)
今日からこのホテルをチェックアウトして、安宿に移ることにした。荷物をまとめ、地下鉄に乗って、先ずは自分が知っている中で最も安い宿に行ってみる。しかし、満員で断られる。昨日買ったガイドブックで別の宿を探し、行ってみる。こちらも定員一杯になっていたが、エクストラベッドを使うことはできると言うので、チェックインする。
モスクワ(2003/03/28)
朝、起きると部屋で列車で食べるように買って残っていたビスケットを食べて、簡単に済ませ、先ずは地下鉄に乗ってチューホフスカヤと言う駅で降り、大使館にウクライナビザを取得しに行く。
モスクワ(2003/03/27)
夜中の三時にティムールは降りていった。行くときに寝ている僕に声を掛けてくれて、握手をしてさよならを言って別れた。
朝の7時にはリャーザヌでおばあちゃんが降りるので、荷物を運ぶのを手伝ってあげた。
アルマティ⇒モスクワ(2003/03/26)
アロビナは早朝の4時に列車を降りた。今日もみんなから卵やパンなどをもらいながら、食事をする。昼前にウラリスクにつくと、おじさんが僕らのコンパートメントに乗ってくる。彼は年が37歳でちょうど自分より10歳上である。名前をアレクセイといって、ナバロフ近くに用事があっていくそうである。マガジン(ロシア語で売店のこと。小さなコンビニエンスストアみたい。)で働いているそうで、一人のお子さんがいるそうだ。彼がとても陽気なひとで、且つとても親切である。昼食の時間になると、肉やパン、お菓子、お茶をくれて、途中の駅でビールをおごってくれた。
アルマティ⇒モスクワ(2003/03/25)
朝、目を覚ますと相変わらず、通路は大勢の人間でいっぱいになっており、トイレに行くのもやっとである。途中、インド人のおばさんたちが話し掛けてきて、頭が痛いからアスピリンをくれとか、ベッドで寝かしてくれないかとか、あつかましくねだってくる。日本から持ってきた薬と、香港の友達にもらった薬は、すべてアルマティのタクシー事件でなくなっていたし、部屋に入れるのも、同室の三人に迷惑だろうと思ってこれを断る。
アルマティ(2003/03/24)
朝の5:30には目が覚めて、シャワーを浴びに行く。ここから三日間はシャワーを浴びることができない。部屋に戻って荷物をまとめて、同室のパトリックにお別れをして、7時には宿を出る。
アルマティ(2003/03/23)
今日はカザフで行動できる最後の日である。だけれど、これと言って行きたい場所もなく、ひとまずラムストールに行って買い物をして、今度はバザールに行って買い物をして、そこの昨日も行った安いウイグル食堂でシャシュリク(ケバブ)を食べチャイを飲んで午後には宿に帰る。そして日記をつける。
アルマティ(2003/03/22)
今日はイスラム教のお正月に当たるらしい。日本のお正月と、中国のお正月、それにカザフスタンのお正月と、今年は3度もお正月を迎えることになった。まずはアルマティ第二駅に行って、モスクワ行きの切符を買う。モスクワ行きの列車は偶数日に出発するようになっていて、料金は18,333テンゲである。出発は24日の朝方で、27日の10時過ぎに到着する予定である。25日からロシアビザが有効になるが、24日中はまだカザフスタン領内を走るので問題ないという。切符を得ると、トロリーバスに乗ってラムストールまで行き、インターネットを見る。どうやらイラクの戦争が始まったらしい。旅に支障が出ないことを祈ろう。
ビシュケク⇒アルマティ(2003/03/21)
この部屋はよく間違い電話が掛かって来る。部屋番号が25なのだが、ビシュケク市内の電話番号が25で始まるので、外線番号を押さずに25をプッシュするとこの部屋にかかってくるのだと思う。それに水まわりも壊れ気味で、カザフスタンの宿にあった湯沸かし機も部屋にはない。それに料金が割に高いので、今日一日でチェックアウトして、宿を代えることにした。
アルマティ⇒ビシュケク(2003/03/20)
朝方、いつものようにフロントに湯沸し機を借りに行って、中国で買ったジャスミンティーを、やはり中国で買った茶のみ瓶で飲みながら、ピロシキや菓子パンを食べる。朝食を済ませると、4番の市電に乗って旅行代理店に行く。ここで、ロシアのビザを受け取り、一旦宿に引き返す。
アルマティ(2003/03/19)
今日は旅行始まって以来のまとまった雨。外での行動はせず、部屋で日記をつける作業に集中する。
夕方、夕食の買い物に外に出て、近くのバザールに行ってみる。そうしたらロシア語版のWinsowsXPとOfficeXPのセットになったCDが売られている。値段を聞くと400テンゲと格安である。思わず購入する。もちろん海賊版であることは承知の上だ。その隣の店にスイス・アーミーナイフが売られているのでこれも購入。列車の中や宿で買出ししてきた食料を捌くのにもってこいのもの。列車に乗っているとナイフで肉や果物を切っている人をよく見かけるので、前から必要だと思っていた。このアーミーナイフが4350テンゲで結構安いか?こちらはどうやら本物らしい。
アルマティ(2003/03/18)
今日は予定ではロシアのビザを取得して、キルギスに向け出発する予定だった。だが、旅行代理店に朝の10時くらいに行くとまだ取得ができていないという。取得は20日の朝になるという。結局、あと2日間の待ちぼうけをくらうことになった。まあ、折りしも昨日からひいている風邪もあるので、今日・明日は風邪を完治させることに専念しようと決めた。
アルマティ(2003/03/17)
この日は午前中を宿の部屋で過ごし、午後遅くラムストールに行く。目的はインターネットを見て、キルギスの情報を収集することだ。ラムストールの一階には小さなスケートリンクがついていて、ここで子供たちがアイスホッケーを練習していた。たかが練習だが、結構当たりが強い。三十分くらいこれを眺めたあと、インターネットを1時間くらいやって、引き返す。帰り道どうも喉の調子がおかしい。少し風邪気味になっている。昨日、半開きのベランダのドアに少し寒気を感じながら寝ていたせいだろう。今日はシャワーも浴びず寝ることにした。
アルマティ(2003/03/15)
今日は4番のトランバーイに乗って終点まで行ってきた。本来は途中のバスステーションで降りて、ビシュケク行きのバスの料金と時間を聞こうと思っていたのであるが、降りる場所がわからず通り過ぎてしまい、終点まで行ってしまったのである。終点には中規模のバザールがあって、昼時のせいか結構ひとで賑わっていた。再度引き返し、バスステーションに行く。いろいろと情報が集めることができた。
アルマティ(2003/03/14)
今日はタルガート君が夜7時の列車に乗ってアスタナに帰る日であった。それなのでたくさんの記念写真を宿の部屋で撮った。
アルマティ(2003/03/13)
早朝、彼が持っていたパンとケフィール、それに僕のジャスミンティーを分け合って、朝食にして、彼は朝早く病院に向かって出発して行った。
僕は坂を上って、大統領公邸のほうへ行ってみることにした。公邸のとなりには市民ホールがあって、通りを挟んで向かい側に大きな国立中央博物館がある。ここが80テンゲと安い入場料で、しかもかなり資料が多く、展示の仕方がきれいである。博物館は一階が古代(恐竜とか原人とか)、二階が中世(遊牧民の時代だ)、三階が近代(主に第二次世界大戦)と現代(現大統領について)という風に分かれている。
アルマティ(2003/03/12)
タルガート君が朝食にマンティ(中国では包子と言った、要するに肉まんである)をくれた。それにケフィール(要するに飲むヨーグルト)もくれた。彼が紅茶を飲みますかときいてくるので、僕は持っていたジャスミンティーを取り出し、こちらを飲もうよと勧めた。二人で一緒に夕食を取りながら、いろいろ楽しい話をすることができた。食べ終えるとタルガート君は研修先の病院に向かって出発した。
アルマティ(2003/03/11)
朝方、7時過ぎにアルマティ第一駅に到着する。旺さんや、焦さんはここで降りたので、自分も降りようとすると、車掌がもう一駅あるから待てという。しばらくして列車は再度発車し、数十分後にアルマティ第二駅に到着した。
ウルムチ⇒アルマティ(2003/03/10)
目を覚ますと列車はアラシャンコウ駅に停車している。ここは国境の町だ。昨日の夜に辛い拌面(焼きうどん)を食べたのだが、これが結構辛くて、今日のおなかの調子はあまり良いものではない。とりあえず、トイレに行こうと思いきや、停車しているためトイレの使用は禁止されていて、鍵が掛けられている。このままではマズイと思ったので、車掌にお腹が痛いからトイレに行かせてくれとせがむ。こちらの痛々しいそぶりを見て、駅のトイレまで行かせてくれる。但し車掌の見張り付きでだ。
ウルムチ(2003/03/09)
今日は23:58ウルムチ発の列車に乗ることになっていたが、時間はまだまだあるので、半日分半額のチェックインをしなおして、ロシア語の勉強をしたり、テレビでF1の開幕戦の予選を見たりして、昼間は時間を潰し、夜の8時にはホテルを出て、夕食を取り、インターネットカフェに行って時間を潰し、駅に行く。
ウルムチ(2003/03/08)
目を覚ますとすでに10時過ぎになっている。今日はルームメイトが11時40分に北京行きの列車に乗ることになっていて、朝まで話につき合わせてしまったことを詫びた。
ウルムチ(2003/03/07)
朝方、北海道大学生の彼は上海に向け列車に乗るということだったので、駅まで送りに行って。その後、カザフスタン行きのチケットを購入する。
ホテルに引き返すと、とりたててすることもなくなったので、昼寝をする。ルームメイトは市内にある公園に行くということで別行動となる。
ウルムチ(2006/03/06)
目を覚ますと、朝方の5時になっている。すでにウルムチに到着していて、周りの乗客はバスを降りてタクシーに乗り換えようとしている。いまだ雪は降り続いている。自分もさっと路上に降りて、タクシーを拾う。あらかじめ調べておいたドミトリーの新疆飯店というところに行ってもらい、チェックインする。ドミトリーには日本人が二人泊まっていたが、朝方の6時だからまだ寝ている。ひとまずシャワーを浴びて布団に潜り込んだ。
敦煌⇒ハミ⇒ウルムチ(2006/03/05)
朝方、9時に二本のウルムチ行きの列車があると聞いていたので、早速行ってみると、いまだに列車は動き出していない。楊さんはここで諦めて、バスで蘭州に帰ることにして、敦煌市内に引き返してしまった。自分は一人待合室で列車の開通を待つ。数時間か待った挙句、雪まで降り出して来た。
敦煌(2006/03/04)
今日の夜にはウルムチに向けて出発する予定だった。楊さんも仕事の関係上ウルムチに行く予定があったらしく、ついでなので、一緒についてきてくれるという話になった。昼間は市内を歩いて回り、夕方いつものタクシーの運転手を呼んで、安西駅まで行ってもらう。駅に到着すると、チケット売り場の様子が何かおかしい。しばらく待っていると「大風」の看板で売り場が塞がれる。またである。この調子だと今日は列車が動きそうにないと判断して、駅前の招待所にひとまず翌日の朝まで待機することに決めた。
敦煌(2003/03/03)
今日は敦煌市内を探索することにした。市内中心部にある博物館に行こうとしたが、なんの理由かわからないが閉まっていて見ることができなかった。それなので市内をぶらついてすごした。
敦煌(2003/03/02)
朝、10時に目を覚ます。楊さんとロビーで待ち合わせすると、タクシーの運転手もすでに玄関で待っている。タクシーに乗り込んでまずは朝食を食べに向かう。西安でも何度か食したが、朝は大体、数個の包子(バオズ)と小豆スープ(おしるこの甘くないようなもの)を食べる。その後は市内から20kmくらい離れたところにある莫高窟に行く。
西安⇒敦煌(2003/03/01)
朝起きると列車は停車していて、多くの乗客が外に出て買い物をしている。自分も朝のちょっと寒いホームに降り立って食べ物を物色する。快餐(直訳するとファースト・フードだが)と書いた看板を掲げ、お弁当を売っている。まだ小学生か中学生くらいの女の子が朝早くからこの弁当売りの仕事をしている。発泡スチロールの入れ物にご飯とおかずを一杯詰め込む。ご飯があふれそうなのでもうひとつ入れ物を貰おうとすると、さっととがめられ、女の子に睨まれる。余分にはくれないらしい。幼いながらも商品にロス無く必死に物を売る女の子になんともいえない同情を覚える。しかし、同情するならカネをくれという殺気立ったものを感じた。
西安⇒敦煌(2003/02/28)
11:30から敦煌行きの列車に乗る。今日は硬臥(硬い寝台)をゲットできたので、比較的楽な旅だ。列車に乗る前に駅前の雑貨店に行って、カップラーメンやみかんを買う。全部で17元の買い物で、100元を渡す。そうしたらその店の若い店員がさらに100元よこせばすべて10元に両替してくれるというので渡す。帰ってきたお釣りは163元。20元足りない。返せというと10元しか渡さない。怒ってこちらが大声を出す。悪い悪いといいながら10元返す。お前は悪い奴だと捨て文句を行って店を後にした。いつもそうやって観光客からゲームのように金を巻き上げているのだろうか。それとも両替の手数料を取っているつもりなのだろうか!?こちらは、中国語に慣れてきたのもあって、真剣にやり取りをして損をしないようにはできた。これぞ大陸での人とのやりとり。日本みたいに人任せにうっかりはできない。
西安(2003/02/27)
今日は別のバスに乗って大雁塔に行ってみる。中国でのバスの乗り方もこの頃一通りマスターした。漢字ですべてのバス停名が書かれていて、市内地図にも情報が載っているので、これを元に目当てのバスを探す。バスにはそれぞれルートごとに番号が振られていて、乗りたいバスの番号を待っていればOK。バスが着たら乗り込んで集金係がいるので数元を渡す。中にはワンマンバスで一元を箱に入れる方式のものもある。乗り慣れれば結構簡単なものだ。
西安(2003/02/26)
長い座席の旅に疲れていたので午前中は招待所のベッドでゆっくり休んだ。午後からまずは西安駅に敦煌行きの切符を買いに行く。
その後は兵馬俑へと市内バスで赴く。着くや否や、怪しい日本語を話す中国人がわんさかと声を掛けてくる。どうやら、兵馬俑のガイドをするサービスらしいが、値段を聞いて80元と観光地価格なので断ることにする。それでも入場料は100元を払って、中に入場する。ここには3号坑まであって、一通り見て回る。ひとつひとつの坑が雨風をしのぐために体育館みたいなつくりをした屋根付きの建物で覆われている。そこに秦の兵隊や騎馬を模した像が幾重にも並んで配置されている。この日は人民解放軍の集団が旅行で来ていて、そこらじゅう兵隊だらけである。現代の兵隊が古代の兵隊の像を見学にきているなんてちょっと奇妙な光景だった。
桂林⇒西安(2003/02/25)
朝目を覚ますと外は華北の一大農業地帯である。午前中に学生の二人が鄭州で降りると、今度はやはり学生の男の子が正面に座って、またまた筆談を始める。列車は貧乏旅行や里帰りをする学生や若者でいっぱいだ。なんだか、楽しい車内。中国のこれからの高度経済成長を支える若い世代の詰まった列車。外は窰洞(ヤオドン、乾燥した土地に穴を掘って暮らす住居)でいっぱいの切り立った崖がそびえる乾燥地帯。風景は一変している。
桂林⇒西安(2003/02/24)
今日は昼過ぎから列車に乗ることになっていて、午前中は10時くらいに宿を出て、昨日行った駅前にあるコンピュータのショッピングセンターに行って、簡体字バージョンのWindowsXPとOfficeXPを購入する。どちらも、10元と格安。もちろん海賊版であるが…。
桂林(2003/02/23)
朝方、招待所のお手伝いの女の子が部屋に掃除に来て、飛行機で仲良くなり一昨日招待所を探してくれた日本在住の中国人女性を誘って三人で一緒に食事をしようという。早速女性に電話してみるが、あいにく留守。とりあえず、一人で桂林の街をぶらつくことにした。
桂林(2003/02/22)
昨日の夜にこの招待所に到着したときに、今日の遊覧船ツアーを予約していたので、朝の8時からバスが迎えに来て、これに乗って出発する。外国人向けのツアーは結構高くつくので、中国人向けの300元のツアーに参加することにしていた。それなので周りはすべて中国人で、外国人は自分ただ一人。言葉がいまひとつ解らずとも、何とかなるものだ。ガイドさんに言われ、武漢から来た社員旅行のグループにくっついて行動することになった。
マカオ・深圳(2003/02/21)
次の目的地である桂林へ向かうための飛行機に乗る深圳空港へは香港〜マカオ間のチケットとセットで買っていたので例の高速船で移動することになっていた。出発はお昼過ぎだったので、時間をもてあます。マカオグランプリの博物館に行ってセナやシューマッハの優勝マシンを見たあと、グランプリスタンドに行きしばしたそがれる。
マカオ(2003/02/20)
次の目的地はマカオに決めていたが、そのあとは桂林に行くことになっていた。
ピエンが深センから桂林行きの飛行機のチケットを取ってくれて、これを受け取り、マカオまで船で移動する。この船が結構高速で、船に揺られること1時間でマカオに到着した。マカオは一泊しかしない予定で、少し値が張っても今日はいつもよりいいホテルに泊まろうと決めていた。
香港(2003/02/19)
この日は香港島の裏側に行って、フィッシュマンの暮らすアバディンに行くことになった。バスに乗って途中まで行くが、アバディンには到着しない。バスの運転手に尋ねても広東語しかわからないので埒が明かず、周囲をうろうろする。英語のわかりそうな学生を見つけて聞くと、もう一本バスを乗り換えて行くそうだ。
香港(2003/02/18)
午前中はトミーのお父さんの仕事場を訪ねて、手伝いをすることになった。仕事の流れがわからないので、自分はほとんど見ているだけであったが、親孝行のトミーは重い荷物を持ってお父さんを手伝っていた。
香港(2003/02/17)
香港に入ると、中国のビザが切れてしまい、再度取得する必要があった。トミーの家で朝食をご馳走になると、トミーの案内で旅行代理店に連れて行ってもらい、そこでビザの申請を行う。モンコックの付近でお父さんと待ち合わせ、昼食を三人で取った後、昼過ぎからトミーとお父さんはそれぞれの仕事があるので、ここで一旦別れ、僕は一人で九龍を散歩することになった。
香港(2003/02/16)
トミー(建君)は香港理工大学で働いている。詳しい専門はきちんと聞かなかったのでわからないが、なにやら人間の視覚を扱う専門らしい。この日は日曜日で、トミーはサッカーチームを持っており、大学でその練習をするとのことだった。
広州・香港(2003/02/15)
目を覚ますと外の景色は東南アジアみたいな亜熱帯の風景に変わっている。11:18に広州駅に到着する。ここから香港までは列車を乗り換えなければならない。香港までの列車は広州駅ではなく広州東駅から多く出ているので、そこまでは地下鉄に乗っての移動となる。広州の地下鉄は上海と同じく、いやそれ以上近代的で、ホームと線路との間に自動扉の付いた仕切り壁が設けられていたりする。改札や切符販売もすべて自動である。一旦地下鉄を乗り換え、数十分で広州東駅に到着した。
上海(2003/02/14)
朝、広州行きの11:30出発の列車に乗るべく、ドミトリーの皆が寝ている中を、上海駅へ急ぐ。
地下鉄に乗って上海駅にたどり着く。そこにはもうたくさんの人の行列ができている。今回は硬臥(硬い寝台のこと)を確保しているので、快適な列車の旅となる。運河の多い江蘇省の水田地帯を窓越しに眺めながら。
上海(2003/02/13)
翌日、9時くらいまでゆっくり寝た後、部屋が一緒だった日本人の青年と一緒に部屋を出て、上海駅まで行き、まずは広州行きの切符を買うことにした。彼は上海を基点にして、中国の南部(成都・雲南・広州)をぐるっと一周してきたところで、上海に来る前は広州にいたという。それなので、広州行きの列車の情報をいろいろと聞くことができた。自分は次の訪問地を北京で知り合った友達のいる香港と決めていた。その香港行きの列車が広州から出ているという。彼はビザと予算の都合上、香港にはいけなかったそうで、羨ましがっていた。
上海(2003/02/12)
車内の明かりと乗客のおしゃべりで、ゆっくり眠れず、途切れ途切れに睡眠をとる。大体2〜3時間ごとにお尻の痛さに、耐え切れなくなってトイレ休憩に行く。そうこうしているうちに、朝がやって来て、目を覚ましてしばらくすると、とてつもなく川幅の広い長江に架かるこれまた高く大きな橋を渡り、渡り終えてしばらくすると南京駅に至る。かつての大虐殺の場所。私が日本人であることを知ったら周りの人々はどのような反応をするであろうか。しかし、面倒にもなるのが嫌だし、また日本軍侵略についての考えを述べさせられるまでなので、おとなしくじっとしている。上海到着までの時間はもう少し。
北京(2003/02/11)
この日は上海までの列車が15:30に出発するので、時間が余っており、早めに宿を出て、日本大使館となりの昨日行けなかった日本文化交流センターに行って、無料でネットをさせてもらう。だが、ここでも、フロッピーが使えず、サイトの更新ができなかった。それなので、ローミングサービスに申し込むことにした。
北京(2003/02/10)
今日は朝から忙しい一日となった。まず、早朝6時過ぎに北京に着くと、地下鉄に乗って北京駅の隣にある建国門というところまで行き、日本大使館の場所を探る。日本大使館自体には用件がなかったが、その隣にある日本文化交流センターというところに行きたかった。ここは、中国語の先生の彼女から無料でインターネットができると紹介されていたからだ。ただ、時間が10時からということで、諦めて次はカザフスタン大使館に向かうことにする。
大連(2003/02/09)
どうやら気づいてみればここ最近続いている下痢は食べ物が原因というよりも、風邪をひいていることに起因しているのかもしれないと思う。おなかの調子は回復に向かいつつあるが、どうも喉が痛く、鼻が詰まる。それなので、この日の午前中は特に何もせず、ホテルのチェックアウト制限時間いっぱいまで、部屋で休むことにした。
大連(2003/02/08)
昨日とは違って、今日はもう一人の中国語の先生の中学時代の同級生に会うことになっていた。今日は朝の9時に待ち合わせをして、その後、彼の彼女も合流して「老虎灘公園」というところに遊びに行った。彼も現在日系企業に勤めているということだった。この公園には水族館があって、何年ぶりか忘れてしまったが、久しぶりに水槽の中の珍しい魚たちや、アシカ・イルカショーを見たりした。
大連(2003/02/07)
今日は昼の12時に来客の予定があった。尋ねてくる人は、昨年の6月から家庭教師として中国語を教えてくださった先生のその彼女が大連の街を案内してくれるとのことだった。目が覚めたのは朝の8時くらいで、ノートパソコンを使ってこの日記を書いていたところ、10時くらいには連絡があって、もうホテルのロビーに来ているという。急いで荷物をまとめてロビーへ向かう。彼女は、現在、北京の大学に通っていて、今は大連に帰郷しているところだった。
大連(2003/02/06)
朝の7時には大連駅に到着した。大連は日本で中国語を教えてくれた二人の先生の実家があり、彼らの友達に会うためにやってきた。駅に着くや否や、大勢の旅館や観光ツアーの客引きが取り巻いて、その中の一人が結構しつこい。何だかんだで一晩100元で泊まれるホテルがあるというので、見せてもらいに行くことにした。だがそこは空きがなかったので、別のホテルに泊まることにした。そこは国泰大酒店というホテルで一晩140元だった。まあ、高くはない。ホテルは16階建てで、結構大きかった。おとといの夜は北京のホテルのマネージャと話しこんで風呂に入っていず、昨日は寝台列車に乗っていて、やはり風呂に入れなかったので、朝方このホテルに着くや否や風呂に入ることにした。ちょっとびっくりしたのは、お湯を出すと錆びの混じった黄色いお湯が出てくるということだ。しかし、しばらく出しっぱなしにしていると黄色くなくなったので、何とか入ることができた。まあ、安宿めぐりをしているので、文句は言っていられない。また、列車の中では良く眠れず少し寝不足気味で、体調も良好とはいえなかったので、昼寝をすることにした。
北京(2003/02/05)
今日も朝の7時に起きて、タクシーに乗って、アリスさんたちのホテルに朝食をご馳走になりに行った。途中タクシーの運転手と、「今日も寒いですねぇ」とか世間話を試みてみたら、韓国人かと聞かれた。日本人だというと、運転手曰く韓国人も日本人も中国語の訛り方は結構似ているという。
北京(2003/02/04)
今日は朝の8時に香港女性三人組と彼女らのホテルで待ち合わせをしていたので、7時にモーニングコールで起こしてもらい、タクシーに乗ってそのホテルに向かった。タクシーでは自分が話す中国語の発音がいいねと運転手のおじさんに褒められたのでちょっと嬉しかった。彼女らのホテルに朝方向かったのは、朝食をご馳走になるためだ。なんでも、ここのホテルの朝食はバイキング形式で、部外者でもこっそり入って食べられるとのことだった。でも、お腹の調子は未だに悪く、お粥くらいしか食べられそうなものはなかった。
北京(2003/02/03)
今日はニッキー達がハルピンに向け出発する日なので、一人で泊まる宿を見つけなければいけない日になった。親切にもニッキーが部屋を探してくれて、天安門広場の南側にある前門の一泊120元の宿を見つけることができた。
北京(2003/02/02)
この日は朝10:00くらいにゆっくり起床して、朝食にパイコー麺を食べた後(またまた健君のお父さんに付き合って50℃の白酒も)、ニッキー達と万里の長城までバス観光に出かけた。
北京(2003/02/01)
中国の正月のこの日、寝たのが明け方の4:00くらいだったのだけれど、今朝は天安門広場に国旗の掲揚式を見に行くために、5:30には起床してタクシーに乗った。もちろん昨日知り合った仲間を含めて6人である。だけれど、早く出すぎてしまっていたために、寒い中(おそらく-5〜-10℃)一時間ほど待たなければならなかった。式は日の出と同じくらいの時間に始まった。式は天安門から前面の通りを挟んで反対側にある、国旗掲揚台までのパレードである。
北京(2003/01/31)
この旅を理由に仕事を退職したのは先月のこと。それまで、実家を離れ高円寺での一人暮らしの生活の中、無駄遣いはせず貯めてきた資金は最後のボーナスで目標額の100万円に達していた。まったくの未経験から始めたプログラマの仕事が「石の上にも」というように、3年を過ぎたばかり。これであれば再就職も大丈夫だろうという風に打算的になっていたので、仕事を辞めることにまったくの未練はなかった。